ビキニcomブッダ@ブラジル

                                          BRASIL連邦共和国 Rio Grande do Norte州の海辺にて                                                  ビキニで暮らす仏教徒の『ゑん』な日々♪

人工知能に仏教が説けるか  






今夜はものすご大きい月が拝めるらしいので、
朝からわっくわくしている。
日本はいまごろもう、ぼっかーーーん、と、素晴らしき月が
夜空に浮かんどるころかな。


先日、こころがざわざわするような記事を読んだ。


『ブッダの教えを学んだ人工知能が誕生したとき
 仏教の未来はどうなるか?』
(←リンク貼・クリックで開く)





仏典のすべてを覚えた人工知能に
仏教を学ぶ時代がきたら、
僧侶は、仏教は、どうなるか?

 っちゅう考察なのだが、おおまかに内容を抜粋すると、



この記事の筆者は、

仏教とは釈迦を信仰する宗教ではない。
釈迦の教えを実践する宗教なのである。
とすれば、自ら「釈迦の教えとは何か」を考え、
教えをフィードバックしていくことを一つの実践ととらえるならば、
人工知能は仏教を体現しているものと言えるのではないだろうか。


僧侶の存在意義の一つを
「仏教の教えを自ら実践し、それを人々に説き、
人々を苦しみや悩みから解放すること」
と定義づけできるのだとしたら、
人工知能は僧侶よりも勤勉に働くのかもしれない。

というのも、手元のデバイスからいつでも仏の教えを聞けるというアクセス性の高さでは、
生身の人間が及ぶところではないからだ。また、記憶力も然りである。

このように、"釈迦Alpha"が誕生したときに、
一般大衆が仏の教えの伝達者として人間の僧侶ではなく
"釈迦Alpha"を選ぶ、といった未来だって予測できないことはない。


 と、しながらも、

こんな未来が予測できる中、人間の僧侶がなすべきこととは何なのだろうか。

 と、問いかけ、


私たち僧侶は「機械」になってはいけないということだ。
自分を省みて耳の痛い事柄ではあるが、
ただ儀式を行うだけ、
もしくは、釈迦の言葉を引用しただけの説法を披露するような
「機械」となっていては、未来はないのかもしれない。

機械と人間が違和感なく共存することになっていくこれからの未来で、
仏教は、僧侶は、どのように変わっていくべきなのか。
それとも、変わらないままであるべきなのか。
一度僧侶同士、膝を突き合わして話し合ってみたいものだ。


 と、まとめている。




この記事の筆者の言うことは、もっともなことで、
僧侶はロボットではないのは当然なのだが、
なんだかこのかたの考えかたに、
根本的な異議をオレは抱くんよ。


『仏教』を身近なものに感じてもらおうと、
若い僧侶たちがさまざまな試みでがんばっていることは認める。
この記事の掲載サイトの『彼岸寺』
インターネット寺院として、ネットを通じて
若い層に呼びかける活動をがんばっとることは認める。

「僧侶とは、
 寺に鎮座しとって、葬式や法事をして、
 先祖供養をする者ではないのだよ、
 もっと身近で親しみやすいものなのだよ」
  と、敷居を低くしようとしとることも、とても良し、とする。




ばってん。

僧侶とはそもそも、
悩み相談屋や、
拝み屋や、
占い師、ではないのだ。









敷居をひくくする箇所をまちごうたらつまらん。
もひとつ言うなら、
僧侶は自分自身が到達すべき場所の敷居を
低く設定したらつまらん。



釈尊は入滅時に、
「これから何をよりどころにすればいいのか」と困惑するお弟子さんに
こう遺された。
「自分自身をよりどころにしなさい」と。
自燈明。
「まずは自分自身を整えなさい。
 法はそのあとに付いて来る」っちゅうような意かな。

自分自身をととのえることより先に、
仏道を説くことなど不可能なのだ。
まずは実践生活ありき。
ひとにやさしくを
イコール自分に甘く、では、イカンのだ




お釈迦さまの『ダンマパダ』は、
出家の僧侶にむけて書かれた書だ。


そのなかの一説に、

  愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。
  また愛しない人に会うのも苦しい。

  それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。
  愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。

  愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、
  愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

  愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。
  愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?           


   というのがある。



これは一般在家の者がそのまま実践することには向かない。
なぜなら在家のわれわれは、愛する家族とともに共存しているからだ。



ダンマパダをはじめ数々の仏典を
人工知能が習得し、それを教授することは可能であろうが、
数式とはちがい、仏教とは、人の数だけ教えの方法もあるのだと思う。
したがって、人工知能にはできぬ教えがある。

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「今夜のお月さんが楽しみでちゅねっ」と、
お月さんのようにまんまるな4つの目を見ながら
期待に胸をふくらませる。




月をみて、
どんな思いを抱くか。
そのこころは、人の数だけ形が在るだろう。





月をみて 月に心がすむときは
月こそおのが心なるらめ

            山崎弁榮聖者





月をみて、月をありがたく感じたとき
己も月になる。



人工知能の機械に教えられる経典や、
媚び媚び僧侶には、
伝導できんことはいっぱいあるのだ。





(=ΦωΦ=)


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